プロフィール

yougakudou

Author:yougakudou
創業1986年 洋学・蘭学・東西交渉史を中心に、学術古書、国内古書・古文書も取り扱っています。また当店出版物もございます。




リンク


最近の記事


最近のコメント


カテゴリー


FC2ブログ

Ads by Google

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛色須悦成

いろいろなお客様

ある真夏昼下がり、大柄のお客様が突然。「あの・・・麦茶下さい」と飛び込んでくる。渡した。大汗の中おいしそうに飲み干すと「さ!いかなくちゃ!!」「一筆書きで全国の古本屋さんを回ってるんです(にこにこ)」。こちら、唖然・・・。ある日は、「あのう○○○全集はまだ在庫がありますでしょうか?」「はい(研究者風のまじめそうな方だな・・・)」「見せてもらえます?」「全集は倉庫の中なのでこちらへどうぞ」「はいはい、私は倉庫で結構ですから、お構いなく」。なんだかいやな予感。そして的中。以後3時間倉庫の通路に座り込み読書されました。どうぞとお通しした以上どうしようもありません。「やっと探してるところが見つかりました!」と満足そうにかえられました・・・。またある日は、「ぷるぷるぷるる(電話の音)」「はい。洋学堂書店です。」「あのう、△△△研究という本が在庫でしたら、まだ見たことないので出版社と頁数を聞かせてもらえたらありがたいのですが」「はい。その本は本店から30分ほどの倉庫に保管していますので至急とってきます。帰り次第ご連絡します。ああ、札幌のお電話番号○○○○ですか。承知しました。」急ぎ諸冨まで車を飛ばしリターン。「(高い本だから大切に大切にっと)」。ピッポッパ・パッポッピ。「ただ今戻りました。■■出版の756pの本です。綺麗な状態です。送料は札幌まで500円で大丈夫ですがどうなさいますか?」「ああ!そうですかぁ♪たすかりました。実は明日研究論文締め切りで、どうしても引用文献欄にその本のデータを入れないとカッコつかなくってねぇ。ありがとう。ガチャ」。

こころにも あらでうきよにながらへば こひしかるべき まともなおきゃく

まだらボケ??


文化は受け継がれた歴史と各時代の生活の「実態」の上に存在する。かつて語られてきた「日本文化」とは、とりもなおさず弥生農耕文化以来の多神教的同一階層観の中でのみ幻視でき得た価値観だった。昭和40年代までは高度成長期とはいえ、まだ家族の中に古来同様の共有の時間があった。父が祖父から、祖母が曾祖母から語り聞かされた物語なり、迷信なり、習慣なりを子孫を前にくちうつしに伝承しうる、共有の時間があったし、若年を納得させるだけの特権もまた年長者たちは持ち合わせていた。「家」「家族」という単位が、そしていわゆる「日本文化」なるものが、少なくとも数百年のスパンであまり変わらず確実に存在していた時代を思い起こすとき、今更ながら昨今の社会の急速な変容を本当に理解している人が、いかほどいるのだろうかと気にかかってくる。旧懐的な安物の文化保護論を語っているのではない。あまりにも唐突な、短期間での民族的実感の連続性の破断にただ口が閉まらないでいるのだ。価値観が細密に個別化し、報道は表面上どのような生き方も一見許されるような論調を流し、教育もそれを是と教えているが、受け皿の社会はそのようなユートピア的制度は当然持ち合わせえず、あいかわらず旧来の冷徹な経済の法則のみで成立している。脱工業主義も脱資本主義もなしえぬまま、若年者はそれでも浮薄な煽動を信じ、経験浅い推測で「この世にひとつだけの花」を自分が実現できるものだと夢を追っていく。夢見る少年を現実へゆるやかに近づけてくれる制度も余裕も社会にはなく、やがて空想と現実は巨大な乖離を生み、実社会適応力のない人々が空虚なイメージの世界に果てしもなくはまり込んでいっている。ことここに及んでも、「日本文化」全体がいまだ「変化せぬもの」のごとく語られているのを聞くとき、ただあきれかえるのである。いまや、その土台となった社会制度も、価値観・道徳も、習俗・慣習も変わり変容し尽くしている今になおである。「土台をうしなった文化」、形骸化した「コマーシャリズムに奉仕するためだけの文化観」を目の当たりにするのが、かくも寒々しく腹立たしく感じるものだとは思いもしなかった。もうすでに明治・大正・昭和でさえ、外国人の暮らしを垣間見るよりはるかに遠い世界となってしまったように思えるのだが、実はそれは既に初老の域に踏み込んだ”おいら”の「どの時代にもヨクある老人性の憤懣」だろうか,はたまた「生死をまたぐマダラボケ」なのだろうか。

極限のそば屋

IMG_0275.jpg佐賀の天山の奥深く、「狐狸庵」というお蕎麦屋さんがあります。カーナビが狂うところ。地図を片手にしかいけません。天山中腹の山里から、なお深く深く細い渓流沿いに分け入っていきます。落石もあり、もうそこは荒々しい登山道。あちらから車が来たらどうしようと不安に駆られながらすすむこと約30分、廃村のような一区画はあらわれ、まさにそこに「狐狸庵」が出現するのです。すぐそばまでいってもろくな看板もありません。山小屋のような"いおり"の門口をおそるオソルくぐっていくと、きりりと板の間が見え、「夏でよかったなぁ・・・」と思わせます。(真冬、凍える雪道を崖を恐れながらようやくたどりついたところが禅寺の板の間みたいな店だったら・・・ホントニどうします?)そしてそしてようやく注文となり、おいしいそば茶をいただきながら、質素な木卓から白萩と山の早い秋草をながめて待っていると?なにやらトントントン?え!??今からそば切ってるよぉ!!!かくして待ちに待つこと30分ほど、清冽な凛とした蕎麦が深山の山水をまといあらわれてきます。「どうぞごゆっくりおあがりください」と蕎麦の劣化を気遣い、時間差で一人前を二皿にわけ、10分後に後半ステージを運んできます。つゆは辛口、麺も固ゆで、砥ぎ上々。異次元の時間を過ごしたような門口をでて帰り道、貪らぬ流儀がわざわいするのか、渓流へ転落せぬようハンドルにしがみつきながら「狐狸庵行ってきたんだよなぁ・・・」「蕎麦食ったよなぁ???」とと自問しながら下界へ帰らせるとこあたりが、実は狐狸庵の真骨頂だったりするのかもしれません。

注文は少ない料理店です。ご安心を。

盂蘭盆会が終わった。数多くの精霊と会話ができた。霊たちは私の心のほそみちを帰っていった。しばし生死もなく時間も自他の別もない時がすぎた。齢五十五を過ぎ心の中の風景が妙にざわめいている。死を近く知りて生に気づき、影に入りては光を懐かしむ。悪も退けえず善もまた寒々しい。憧れはいよいよ遠く我が姿は夕暮れの道端に立ちつくしている。

いろみえて うつろうものは よのなかの ひとのこころのはなにそありける

Powered by FC2 Blog